無名のアスリート 越崎 歩(2) 「高校まで全国的には無名だった」
卓球を始めたきっかけは、中学校で卓球部に入っていたお兄さんがいたから。その中学校が毎週おじゃまをしていた豊津クラブに行く時に、たまたまついて見に行った。小学5年の時である。
「監督に誘われ、じゃあやってみようか、というノリでクラブに入りました」
越崎は最初からカットマンだったと話す。「その時たぶん、あまりカットマンがいなくて、やるかといわれてカットマンになったと思います」
小学校では運よく全日本ホープスに出場。「予選でぎりぎり残って行けました」
だが、中学校1、2年の時は地区大会で負け、県大会にさえ出場していない。3年では県大会に出場するも県大会では早々に負けかけた。
「もう駄目だと思いましたね。そこから逆転して勝ち、そのあともポンポンと勝ち進めたので、自分の中ではその時の2回戦くらいが印象に残っています。そこで負けていたら、今の私はないですね」
苦しい試合を逆転で勝利し、その後は順調に勝ち進み県大会で優勝した。
そして、九州大会では決勝戦で潮ア由香(現十六銀行)に敗れるも2位で全国出場を果たす。
浜松で開催された全国中学校大会。越崎は3回戦まで駒を進めたが、のちに富田高校で後輩となる射場山に敗れベスト32に終わった。
本人が話すように、県大会で敗れていたら今の越崎はなかっただろう。だが、県で優勝し、九州で2位、全国でベスト32というのはかなり立派な成績である。
ピンチを自らの手で切り開いたことで、チャンスが生まれたのだ。
トップ選手と話をしていると、こういう話はよく聞く。トップ選手でも1度くらいは越崎と同じような経験をしているということだ。ただ、ピンチを切り抜けて勝ち進むには実力がいる。実力があるからこそピンチも乗り越えられる。中学生としての越崎には、それ相応の実力が蓄えられていたのだと想像できる。
全国中学校大会に出場し、ベスト32に入った越崎歩。今から11年前のことである。当時、この大会は取材しているが、残念だが越崎のことは印象に残っていない。男子は愛工大附属が全盛の次期。女子は高蔵が2度目の優勝を飾ったが、2位となった寒川の印象が強く残っている。
さて、この越崎の活躍を見逃さなかったのが、富田高校の吉田國男先生である。
「全国に出たことで吉田先生が声をかけてくれたんですけど、高校に入る時は自分の卓球がどうのこうのと深く考えていなかったと思います。ただ憧れみたいな感じで、岐阜に行きました。遠くに憧れがありました」
どちらかというと安易な気持ちで進学を決めたようである。だが、越崎にはすぐに現実を突き付けられることになる。
「入学する時の選抜で富田が初優勝しました。すごいところに来ちゃったなと思いましたね。先輩は強いし、同学年の樋野も強いし、自分が2年になっても強い後輩が入ってくるし、自分の出る幕が全くありませんでした」
結局、越崎は3年の時にはベンチ入りはするも高校の3年間、団体戦に出場することはなかった。つまり、全国的には全く無名のまま終わったことになる。
「とにかくみんなが強く、かといって自分が弱いからもっとやらなきゃという意識も低くて、すぐに3年生になっていました。高校の3年間は本当にきつくて、しんどいとしか思っていなかったが、今考えると、それは単純に自分が頑張っていなかっただけだなと思えます」と高校時代を振り返る。
しかしながら、恩師の吉田先生は、「守備力にしても攻撃にしてもある程度のことはできたのですが、あの当時のメンバーは5、6人そろっていましたから…。しかし、彼女はとにかく人間的に素晴らしい子でとても真面目でしたね。お世辞じゃなく本当に立派な子です」と越崎のことを絶賛する。
高校時代、真面目に取り組んできたことが、社会人となった時に大きな下地となっているようだ。この辺りも社会人になってから花開いた要因の一つだろう。
高校を卒業した越崎は中国電力に入社する。ある程度の下地はあったにせよ、高校では全く無名。社会人との実力の差は歴然としている。
この状況からどのようにして日本代表になるほどの選手に成長できたのだろうか。
さて、次回はいよいよその核心に迫りたい。

